「危機への対応を見れば、その社会の本当の姿や骨組みが見えてくるということもあるように感じた。わずかな数秒で自然が人間の作った全てのものを破壊できること、しかし、人間の強さや地域のリーダーシップに加え、人々が力を合わせれば、とても乗り越えられないような困難を乗り越え、社会の復興していくことが可能であることを目撃した。」 

2011年7月30日 アンドレアス・シュライヒャー

シュライヒャー氏は、OECD(経済協力開発機構)教育局にて、PISA(生徒の学習到達度調査)やTALIS(教員・教授・学習に関する調査)等な国際比較事業を立ち上げ、教育政策分析・政策提言を行っています。近年では、政策分析に留まらず、実際に、教育改革を推し進めるための成功要因や懸念事項など、OECD諸国の事例研究より示唆しています。母国であるドイツの教育が様々な問題を抱えていることをデータにより明らかにし、ドイツの教育改革の重要性を改めて示すなど、国民の意識改革を図る契機をつくった功績により、国家的な賞である「ドイツ・テオドア・フス賞」を受賞しました。
 福島大学にて、シュライヒャー氏が、OECD諸国の教育政策・実践の潮流と照らし合わせ、東北の創造的教育復興を示唆します。これは、東北復興に留まらず、日本が国家レベルで直面している経済の再建を考える上での示唆とも関連します。これまでと違う能力や技術を備える人材をネイション・ビルダー(未来を担う子ども達の教育に直接携わり、国を創っていく人々)の育成が必要になる中、既存の制度や通常観念を超えた教育改革が必要になるであろうと彼は提唱します。
 これは、教育内容を単に再生産する教育から、コンピテンシー(単なる知識や技能だけではなく、技能や態度を含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して、特定の文脈の中で複雑な要求(課題)に対応することができる力)を高める教育へ、国民国家のための教育から地域社会の市民のための教育へ、日本社会とグローバル社会、試験地獄で競争するための教育から社会統合と社会技能を強化する教育へ、その場限りの教育(その場の状況が許せば─将来の結果を考えずに─何でもするし何度も作る)から、持続可能な教育へと変革する試みです。
 福島大学では、この変革の実験的な取り組みとして、OECD東北スクールを実施しています。震災復興で必要とされる教育とは何か、そして、国家の課題を解決するために、イノベーションを生み出す人材育成のための教育とは何か、東北の復興視察経験のあるシュライヒャー氏と、復興について振り返る機会ではないでしょうか。

演題:「被災地の教育復興とイノベーション」
日時:平成25年 2月4日(月)16:00-18:00
場所:福島大学 M3教室
講師:アンドレアス・シュライヒャー OECD教育局次長・事務総長教育顧問

〔シュライヒャー氏 プロフィール〕
Andreas Klaus Reinhold SCHLEICHER 

  • 1964年7月7日生まれ(48歳)  ドイツ・ハンブルグ出身
  • 1984-1990年  フィリップメディカルシステム・情報管理システムプロジェクトマネージャー
  • 1989-1991年  ドイツ・ハンブルグ大学IEA(国際教育到達度評価学会)データ・プロセッシング・センター国際データマネージャー
  • 1992年  国際コーディネーター
  • 1993-1994年  ドイツ・ハンブルグ大学IEAデータ・プロセッシング・センター  オランダ・ハーグIEA事務局データ管理分析部長
  • 1994-1995年  OECD教育統計インディケータ課担当官
  • 1995-2002年  OECD/DEELSA(教育雇用社会問題局)統計指標課長
  • 1997年~   OECD/PISA(生徒の学習到達度調査)責任者
  • 2002-2012年  OECD/教育局指標分析課長
  • 2006年~   (Head, Indicators Analysis Division, Directorate for Education, OECD)ドイツ・ハイデルベルク大学客員教授
  • 2010年~   OECD事務総長教育政策特別顧問 (Education Policy Advisor of the OECD Secretary-General, OECD)
  • 2012年~OECD教育局次長(Deputy-Director, Directorate for Education, OECD)


[挨拶および前置き]
 2011年7月に初めて東北地方を訪れた際、自然は人間が造り上げたものをこんなにも簡単に破壊してしまうことができるのかと呆然となりました。けれども同時に、人々の精神力、地元の人たちの取り組みや協力が、乗り越えられないと思われたような困難な事態を切り開き、教育システムや社会を再構築することができたという事実に深い感銘も受けました。平常時でさえ、日本という国では教師たちに公私の区別はないように思われ、学生に対しては認知的発達だけでなく、学校や家庭における社会面・情緒面での発達に関しても深く関わろうとしています。今回の危機がこれにさらに拍車をかけました。教師たちは物質面・精神面でのサポートがほとんどない中、信じがたいほどの責任感でもって取り組みました。誰も無視することのできない、そして誰も逃れることのできない物理的、経済的、社会的必然性が変化の勢いをもたらしました。そして世界中から寄せられた共感(シンパシー)によって支えられたのです。

 今や瓦礫はすっかり片付けられ、インフラも再構築されつつあり、国際メディアは別の新たな危機状況に目を向けるようになりました。困難な状況は外からは非常に見えにくく、支援の手が差し伸べられるのは大変難しい状況です。けれどもすべての子供たちの心や魂に残った傷跡は消えることがなく、親を失った子供たちは二度と親に会うことができず、仕事を失った親たちも職を見つけることができません。こうしたことが地域の社会構造において暗黙の了解となります。教育変革の勢いを維持するのが非常に難しくなる時期ではありますが、これまで以上に重要な時期でもあります。悲惨な津波の記憶が薄れるには2、30年かかるでしょうが、その頃には今日、ここ福島で築こうとしている変革への土台の成果を見ることができるでしょう。

 1つ、はっきりとしていることがあります。適切なスキルがなければ東北の若者たちは日本社会の片隅にとどまったままであり、技術の進化が経済成長に活かされることはなく、この地域が国内そして世界的経済における競争に打ち勝つことはできません。

 同じ教育によってより多くのものを生み出す方法を紹介しようというのではありません。より多くの教育を受ければ自動的に、より優れたスキルが身に付き、より多くの社会的・経済的成果を挙げられるということはもはや前提条件ではなくなっています。町には就職できない大卒者があふれる一方で、企業は必要なスキルをもつ人材が見つからないという矛盾がこれを証明しています。日本の教育システムは世界で最も成功しているものの1つです。それでも日本の雇用者の80パーセントは、自分たちが必要としているスキルをもった人材を見つけるのは難しいと言います。

 より良い教育をより良い仕事や生活に結び付けるためには、21世紀におけるより良い仕事やより良い生活へとつながるスキルというものについて、より深く理解する必要があります。そして適切なスキルミックスが、効果的で公平で効率的な方法で習得されるように確保し、様々な背景をもつ学生たちに質の高い学習を提供する必要があります。日本の経済、特に東北地方の経済はその人材を有効に活用する必要があります。また、生涯にわたって人生全般に及ぶ学習が、すべての人にとって確実に現実となるようにするために、誰が何に対して、いつ、どのように支払うのかについて、独創的な考え方が必要になります。財政面での現在の圧力は、急速な高齢化人口の結果として支出優先順位が変化すればその何倍にもなるでしょう。日本は非常に大人数となっている学級規模を縮小するために重要な投資を行いました。けれども21世紀の学習成果や教師という職業の魅力を決定付けるカギとなるその他の投資、最も顕著な例として教師の報酬や勤務における指導時間と非指導時間のバランス、そして教師のための持続的な専門能力開発、これらへの投資のために残された余地は限られたものになりました。

 では21世紀の教育としてどのようなことを期待すべきでしょうか?
 これまで私たちは、学生が学校で学んだことは当然、生涯にわたって続くものだと思っていました。そのため、特定の職業のために特定の内容を教えることがこれまでは教育の中心でした。そして特定の職業について学んだ人間はその仕事を続けたいと思うでしょう。東北地方ほど、急速な経済復興が職を失った多くの人たちにかなりの苦難を強いているところは他にないでしょう。

 今日、グーグルでコンテンツにアクセスでき、ありきたりの認知技能はデジタル化されるかアウトソーシングされ、仕事が急激に変化する時代にあっては知識の蓄積にそれほどの意味はありません。成功するためにこれよりもはるかに重要なのが思考方法、独創性、クリティカルシンキング、問題解決そして判断です。連携やチームワークを始めとする働き方なのです。そして世界と交流できるようにする社会文化的ツールなのです。こうしたものが市民としての行為、人生そしてキャリアのためのスキル、また個人的・社会的責任のためのスキルを提供する上でますます中心に据えられるようになっています。

 ここではっきりさせておきたいのですが、私は学校に新たな科目分野を導入することをお話ししようとするのではありません。これは非常に意見の分かれるところでしょう。むしろ、学校で最も伝統的に学ばれている教科の教え方に関係するものです。例えばリテラシーについて考えてみましょう。これまでリテラシーとは主に、確立した符号化された知識体系を処理するために一生に一度は習得するであろう一連の技能のことでした。現在ではリテラシーとは、知識を特定し、理解し、解釈し、創造し、伝達する能力とモチベーションのことです。

 これまで学生には疑問に対する答えを見つけるために百科事典を当たるよう指導するだけで十分であり、総じて見つけ出したものを真実として当てにすることができました。現在、グーグルで探せば27,000件の様々な矛盾する答えが出てきます。検索してアクセスできる知識の内容が増えればそれだけ、この内容を理解する能力、時間をかけて受け入れた知識や実践内容を向上させるために問いかける、あるいは模索する個人の能力も重要になってきます。これまでリテラシーとは主に読みために学ぶこと、確立した符号化された知識体系を処理するために個人が一生に一度は習得するであろう一連の技能のことでした。現在ではリテラシーとは 学ぶために読むこと、絶えず変化する環境にあって様々な状況に関係する文書資料を用いて、知識を特定し、理解し、解釈し、創造し、伝達する能力とモチベーションのことです。10年も経たないうちにリテラシーとは、好奇心や自立性、自分自身の情報の総合体の構築、曖昧さの処理、そして矛盾する情報の解釈・解決を意味するようになりました。別の例として数学について考えてみましょう。ここで課題となるのは、数学は学生にとって単に方程式や定理の世界ではなく、世界について説明し、組み立て、理解することのできる言語であるということを確実なものにすることです。一般に数学は、抽象的な数学世界において、すなわち本物の環境とかけ離れたような方法でしばしば教えられています。例えば学生は計算方法を教えられ、次に数多くの算術計算問題を与えられます。あるいは一定の方程式の解法を教えられ、次に同様の数多くの方程式問題を与えられます。しかし学生は数学の基本概念について理解しているでしょうか、新たな状況や問題に直面したときに数学との関連性を示す形に変えることができるでしょうか?こうした問題を数学的処理ができる形にして問題解決のために関連性のある数学的知識を特定し、利用することができ、そして問題の本来の環境における解決法を評価することができるでしょうか?

 従来、学校で問題に取り組むときには対処可能な断片に分解してから、それぞれの解決方法を学生に教えてきました。けれども現実の世界では異なる様々な断片を組み合わせることによって価値を生み出しています。好奇心であり、柔軟性であって、それまでは無関係に思われたそれぞれのアイディアをつなぎ合わせるということです。自分の専門分野以外の知識であっても精通し、理解できることが必要となります。もしも一生、1つの分野だけに閉じこもっていれば、点と点を結んで次の発明を生み出すという想像力は得られないでしょう。日本が総合学習教科を効果のあるものにするためにどれほど投資しているかは分かっています。しかし今後さらに、もっと多くの努力が必要になるでしょう。特に中等教育においてはそうなるでしょう。

 世界を見てももはや、スペシャリストとジェネラリストに分かれてはいません。一般にスペシャリストは狭い範囲の奥深いスキルをもっており、仲間からは認められるけれども専門領域外では評価されない専門知識をもっています。ジェネラリストがもつスキルの範囲は広いけれども浅いものです。そこでますます重視されるようになるのが、奥深いスキルの範囲を徐々に拡大して幅広い状況や経験に当てはめることができ、新たなコンピテンシー(能力)を取得し、関係を構築し、新たな役割を担うことのできるバーサタイリスト(必要に応じて新しい分野に対応できる多彩な人材)です。絶えず適応できるだけでなく、絶えず学習して成長し、変化の激しい世界で自らを位置付けたり位置付け直したりできる人たちです。

 おそらく最も重要なことだと思われますが、今日の学校においては、学生は一般に個別に学習し、学年末には個人の成績が証明されます。けれども世界の相互依存性が高くなればそれだけ、多くの優れた協力者や編成者が必要になります。今日イノベーションと呼ばれるものは、孤立して作業する個人の成果物であるということはまずなく、むしろ知識をいかに動員し、共有し、結び付けたかという結果です。フラットな世界にあっては、今日は独自の知識であるものが明日には他の誰もが利用できるコモディティ(汎用品)となるのです。トム・フリードマン(Tom Friedman)が言うように、テクノロジーはこれまでに想像できなかったような方法を可能にしたために、最も重要な競争とは、もはや国や企業どうしではなく自分自身と自身の想像との間の競争になったのです。命令や統制を通じて垂直的に生み出される価値はますます少なくなりましたが - 世界中どこでも誰でも可能であるからです – つながり合い、協力する者どうしによって水平的に生み出される価値は増えています。新たな連携協力の形をマスターする人間が成功するでしょう。別の表現をすれば、ストックの世界 – どこかに積み上げられ、急速に価値の下がる知識にあふれた世界 – から、コミュニケーションが充実し協力の流れが出来上がっている世界へのシフトが進んでいるのです。最後になりますが大事なこととして、インクルーシブ(包括的)な世界は、様々な価値、信念そして文化を十分に理解し、これらに基づいて物事を進めることのできる個人を必要としています。

 先進工業国におけるスキルの需要を考えるとき、過去数十年で驚くほどの変化が見られるのは意外なことではありません。手先の技術に対する需要が低下しているのは皆さんもご存知でしょう。こうした仕事は自動化され、外注されるようになったからです。ただしスキル需要の最も激しい低下は手先の技術という分野に限ったことではなく、ありきたりの認知技能と呼ばれるもの、何かを覚えて後々に役立つことを期待するもの、このような分野においても見られます。ここに赤線で示されているものです。教育にとってのジレンマは、最も教えやすく、最もテストしやすいものというのは、デジタル化、自動化そして外注が最もしやすいものでもあるということです。それゆえにこうした仕事は高賃金経済において一番に消えてなくなり、津波の影響で加速された東北地方の労働市場の急激な変化は永続的なものになる可能性があるでしょう。

 一方で、私たちのデータでは非定型的な分析スキル、すでに定着している内容の知識を再生産するのではなく、知っていることから推定し、未知の状況において知識を応用する能力、PISAテストで重点を置いている類のスキル、これに対する需要の増加が示されています。また非定型的なインタラクティブスキル - 協力し、つながり、競争する、すなわち共に働いて生活し、対立に対処して解決するために必要なスキル、これに対する需要の増加も見られます。イノベーションについて考えてみましょう。これまでは素晴らしいアイディアを思い付き、そのアイディアを実現させるために事を起こすのがイノベーションでした。現在はどうでしょうか。

 こうしたスキルを身に付けさせるには、私たちの教育についての考え方を大きく転換させる必要があります。
これまで学習とは場所のことだと考えられ、私たちは子供を学校に行かせてきました。今や学習とは、私たちが人生のすべての段階で行うあらゆることに通じる活動です。

 これまでは様々に異なる学生が同じような方法で教えられていましたが、現在は、ますます進む多様性を分化した教授法で受け入れるということが課題になっています。これまでの目標は標準化と順応性でしたが、今は独創的であること、個人に合わせた教育、普通の学生が非凡な才能をもっていることの認識、これらが目標になっています。教育システムでは常に公平が語られてきましたが、現在は社会的背景が学習成果にもたらす影響の緩和という点から、いかに公平をもたらすことができるかというのが成功の判定基準となっています。概して私たちのデータによると、トップクラスの学校組織は分化した指導法でもって多様性を受け入れており、普通の学生が非凡な才能をもっていることを認識しているのです。

 これまではカリキュラム中心でしたが、これからは学習者が中心となります。これまで政策の重点は資源や教育の提供に置かれていましたが、現在は成果に重点が置かれています。PISA調査では、先進工業国の間で見られる成績差の原因として学生1人当たりの支出額による違いは20%に満たないことが分かっています。ですから同じような支出額の2つの国の教育成果が非常に異なるということがあるのです。また豊かで教育水準の高い国と貧しくて教育水準の低い国にきっちりと分かれた世界というイメージは、今やすっかり時代遅れのものであることも分かっています。

 また将来は官僚社会の中で上に目を向けることから、外に向かって、次なる教師、次なる学校へ目を向けることになり、イノベーションのネットワークを創造することになるでしょう。だからこそ東北スクールプロジェクトは非常に重要なのです。そしてここで言いたいのは、この地域にとっての課題はおそらく、中央、県および地元/学校当局間の意思決定に対する責任についての正規の割当を変更することよりもむしろ、学校および地元当局がすでに有している意思決定責任を積極的に引き受けられるようにすることにあるでしょう。

 成功は価値にも関係します。教育が重要であることは誰しも認めるところです。けれども教育と他の優先事項を天秤にかけたときに試練はやってきます。国は他の高度な技能をもつ労働者と比較して教師にはどの程度支払っているでしょうか?自分の子供には弁護士よりも教師になって欲しいですか?メディアでは教師についてどのように報じていますか?PISAから私たちが学んだことは、高い成果を挙げているシステムのリーダーたちは、単に現在の消費にとどまることなく、教育、自分たちの未来に価値を置いた選択を行うよう市民を説得しているということです。日本はこの典型ともいえますが、教育に高い価値を置き続けることは苦しい戦いになるでしょう。

 それでも、教育に高い価値を置くことはこの方程式の一部に過ぎません。もう1つの部分は、すべての子供たちが達成できる可能性に対する確信です。この図は縦軸で各国のPISA成績を、横軸で社会的背景が学習成果に及ぼす影響を表しています。上に行くほど質が高くなり、横に行くほど公平だということです。右上の4分円は、学生の高水準の成績を学習機会の公平な分布と結合できている国です。日本はすべての学生が高い水準に達するように親や教師が懸命に取り組んでいる国です。けれども東北地方では、一人の子供も置き去りにしないという意欲を維持するのがいかに難しいかということが経験によって分かっています。

 過去はカリキュラム中心でしたが、未来は学習者が中心となります。これまでは様々に異なる学生が同じような方法で教えられていましたが、現在は、ますます進む多様性を分化した教授法で受け入れるということが課題になっています。


21世紀の学習環境
 重要なスキルを予想するのが難しいように、このことが新たな教育システムの設計においてどのようなことを意味するのか理解することはその何倍も困難なことです。しかしながら引き出すことのできる教訓が幾つかあります。

 第一に、学習を中心に据えて学生の真の参加を促すことに関係してきます。子供に対する日本の方針は誇張的なものではなく、具体的で変わることのない優先事項でした。そのために学生、親、教育者そして国全体が本当の犠牲を払う覚悟ができていました。これは日本の教育の重要な強みです。これまでは大半が外側にある目的達成のための手段によって決定付けられており、最も顕著なのが日本の受験文化を通じて確立された大きな賭けとしての入口ですが、21世紀においてはシステムの内側から起こす必要があるでしょう。これは何も21世紀のスキルが本質的に学生の自発性を大いに必要とするものであるという理由だけでなく、これまでの手段が意味を成さなくなってきた結果でもあります。例えば受験生人口の急激な減少によって大学の門戸はかなり広がり、そのため学生が勉学に励むための外的な圧力が小さくなりました。おそらくさらに重要なこととして、これからは労働市場の新参者はかつてないほど頻繁に仕事や勤め先を変えることになるでしょう。このことは、良い高校に入学できても生涯にわたって質の高い仕事が保証されることはないということを意味します。ここにデータが示しているように、日本の学生の参加程度は国際標準に比べると今なお低いようです。PISAの結果では 2000年以降大きな改善が見られるにもかかわらずにです。それゆえに、学習や効果的な学習法についての認識向上に対する学生の関心を高め、参加を促すことがこの地域においては今後も重要になるでしょう。とりわけ、スキルに対する需要の急激な変化や劇的に変化する人口動態によって生涯学習がかつてないほどに重要な優先課題となっているからです。

 第二に、21世紀の教育においては、人生のコースで前もって用意する資格重視の教育ではなく、スキル志向の生涯学習を発展させる必要があります。私たちのデータによると、学問の世界と仕事の世界が一体化すればスキル開発ははるかに効果的なものになります。もっぱら学校で教えられる、完全に政府が策定したカリキュラムと比べて、若者は実世界の経験を通じて職場で学ぶことにより、近代的機器に関する「ハード」スキルや、チームワーク、コミュニケーション、交渉といった「ソフト」スキルを開発することができます。職場での実地訓練は、教育から離れてしまった若者を再び教育に向き合わせ、社会人への移行を円滑に進めるのにも役立ちます。これについてはデータがあります。縦軸は個人のスキルレベルで、横軸は年齢です。赤色の線は、学校または大学に通っていれば実際に何かを学ぶことを示しています。けれども緑色の線は、教育と仕事を組み合わせればスキルの成長が実際に急勾配で伸びることを示しています。働き始めたばかりの若者でさえ、かなり学習の成果を出しています。学校の世界と仕事の世界が非常に密接に結び付くことによって将来の学習がどのように形作られるか、東北地方は強力な事例となるでしょう。

 第三に、21世紀の教育においては継続的な評価と形成的フィードバックが行われる環境を用意する必要があります 。

 4番目に、21世紀の教育においては学生の潜在的な学習能力を十分に把握する必要があります。日本の教育システムが社会的・経済的に異なる様々な環境において優秀かつ均等な学習成果を挙げ、普通の学生から非凡な才能を引き出すよう教育者に奨励し、恵まれない、あるいは困難な状況にある学生を成績に対する期待の小さなプログラムへと方向転換させるような選択肢をほとんど与えていないことに私はいつも感心していました。そして興味深いことに、これは学生の行動にも反映されています。学生たちにどうすれば数学で良い成績をとることができるかと尋ねた場合、米国の学生は一般に才能以外の何物でもないと答えるでしょう。天才でないのなら、何か他のことを学んだほうが良いというのです。日本では学生10人のうち9人が、数学で良い成績がとれるかどうかは自分の努力次第だと答えます。そして彼らは教師がサポートしてくれると信頼しています。それゆえにこの努力が要求され、すべての学生に対して大きな期待が寄せられるのです。ただし私たちのデータでは、学校間の急激な成績格差拡大も見られます。日本の政策が競争や学校選択制に重点を置くようになったことと共に、このような新たな格差は日本人の間の所得格差や社会的格差の拡大と相まって、教育の平等が昔から高い水準で維持されていたこの地域に大きな長期的課題をもたらすことになるかもしれません。日本では恵まれない状況にある学生が通う学校に、より多くの教師を配置することに成功していますが、数の問題だけではなく、最も有能な教師を最も困難な状況にあるクラスに集める方法を見出すことに懸命に取り組む必要があります。最も重要なのは、21世紀においては、教師は学生の意欲を十分に汲み取り、学生それぞれの違いに対して敏感に配慮する必要があるということです。

 5番目として、21世紀の学習環境は協力的な学習が確保されるものであることも必要です 。
 そして最後になりましたが、21世紀の学習環境は学校の内外共にあらゆる活動と教科にわたってつながりを一層促進するものになる必要があります。総合学習を発展させようとする日本の取り組みは非常に素晴らしいものだと思います。それでも、成功はカリキュラムにおけるイノベーションだけではなく、教師がそれを活用できるように十分な訓練を受けられるかどうかにもかかってくることは、総合学習教科の経験からお分かりでしょう。私にとって東北プロジェクトはこの力学を変えるのに理想的なのです。

 ではどうすれば良いでしょうか?答えは簡単です。学校組織そのものの質が教師の質を上回っているところはどこにもなく、だからこそ教師の専門能力開発への投資は非常に重要なのです。近道などはなく、成功への道のりは険しいものです。教師は日本の学校組織において大きな強みであることは明らかです。けれども教師になろうという気にさせる実質的なインセンティブは少なくとも低下しており、教師という職業が高い地位にあるということに対して疑問がもたれるようになってきていることも明白です。

 また一方で、この地域は教師に対して要求されるものがかなり増えていることを示す最たる例となっています。教師や学校の指導者たちは非常に困難な状況下で教育成果を変容させなければならないという挑戦を突き付けられています。彼らは 学生に21世紀の能動的な市民となり労働者となるために必要なコンピテンシーを身に付けさせるよう求められます。個人に合わせた学習ですべての学生に成功のチャンスを与え、クラスルームで広がる文化的多様性や学習スタイルの違いに対処することを求められています。そしてカリキュラム、教授法、デジタル資源の開発におけるイノベーションに遅れずについて行くことが求められています。能力のある卒業生を常に教師として迎え入れられるようにしておくために懸命に取り組む必要があります。競争的な給与水準はこの一環です。けれどもキャリアにおける真の展望を与えること、教師に専門家として、改革のリーダーとしての責任を与えることがカギとなるでしょう。東北地方の改革に教師を参加させることがカギとなりますが、最前線のプロフェッショナルによるサポートがなければ 実際には改革はほとんど起きないでしょう。

 成功しているシステムのほとんどが、PISAの評価によると、野心的な目標を設定しており、学生はどのようなことができるようになるべきかということを明確にし、そして個々の学生に教える必要のある内容や指導法を確立するためのツールを教師に提供しています。高い成果を挙げている教師は教師をサポートして教授法にイノベーションをもたらし、自らとその同僚の成績を向上させ、より強力な教育へとつながる専門能力開発を進めています。今一度申し上げますが、過去の目標は標準化と従順でした。これからは教育システムを成功させるためには、教師が独創的になれるようにする必要があります。

 フィンランドは世界でもトップクラスの教育システムをもつ国の1つですが、教職は最も望まれる職業となりました。現在ではどのポストにも10人は応募してきます。選考方法や職員の訓練方法には細心の注意が払われています。悪戦苦闘している教師の成績をどのように向上させているか、教師の給与がどのような構成になっているかなどが監視されます。教師が協力して優れた慣行を編み出せるような環境を提供しています。そして教師がキャリアを積むためのインテリジェントな進路を用意しています。

 フィンランドで教職が非常に魅力的な職業になっている理由について、フィンランドのCIMOセンター長であるパジ・サルベーグ(Pasi Sahlberg)に尋ねました。次のように語っています。

サルベーグ
フィンランドでは教職はいつも人気のある職業でした。他国ではよく、教職は昔は若い人の間でも人気があった、と聞きます。ここでの重要なgood疑問は、どうしてフィンランドでは、学校教師という仕事が今もなお若い人を挽きつける職業でありつづけているのか、ということです。私の考えでは、フィンランドの学校が他の多くの学校と違うのは、ひとつには教職を教師にとって知的な面で魅力的があり、おもしろい仕事として維持していることと、教員養成の過程で学んだ知識や技能をフルに活用できると感じているんです。カリキュラム策定にも役割を担っていますし、生徒の評価にも重要な役割を担っています。

シンガポールでも教師は大いに期待されています。シンガポール国立教育研究所(National Institute of Education)のタン(Tan)教授は教師の質について次のように定義しています。

タン
カリキュラムの背景にある理念ですが、まず、教員育成にあたっては、学習者のための教師として育成します。次に、その科目において良い教師を育成します。必要不可欠な基盤としては、良い教師はまず、どうやったら学習者が最適に学べぶために手助けできるのか、について、情熱をもち、明確です。

 これらの国について見てみると、トップクラスの教育システムに共通する幾つかの点が分かるでしょう。
 教師は必ず自分が教える教科について熟知していますが、これには教科内容固有の戦略と指導方法の両方が含まれます。

 教師は学習がどのように行われるかについてしっかり研修を受け、広範囲に及ぶ学習方式についてマスターします。口で言うのは簡単ですが、実行するのは大変です。私たちはOECD諸国の教師について調査しましたが、大半が効果的な教え方とはどのようなものかをはっきりと説明することができました。けれども実際にどのように行っているのか調べてみたら、相変わらず優勢を占めるのは前倒し構造の教え方、この図の点線部分です。一方で学生指向の教え方は一般的というには程遠く、教授活動の改善はめったに見られないようです。残念ながら日本のデータはないのでここで紹介することはできません。
フィンランドの場合、教員志願者は教育実習を熱心に行いますが、研究論文も作成する必要があります。教師はその教員生活全体にわたって専門分野の研究に従事していることが期待されるということです。ヤンニカ・サリモ(Jannika Sarimo)はフィンランドの教員教育について次のように説明してくれました。

教員育成 フィンランド
 教員実習生は、教員養成プログラムを始める前に、まず担当科目について大学で数年間学ばなくてはなりません。subject teacherの教員養成コースは1年間です。最初は理論から、そして大学で数週間、そして我々のもとにきて、オリエンテーションをうけます。メンターとなる教師をもち、彼らの授業を見学します、またある時期は、仲間内で教えます。その後、大学に戻り、もう少し理論を学ぶのですが、少し実習経験を積んでいるので、また違った質問をできるようになります。つまり、実習経験を積むというのと理論についての情報を学ぶというふたつの間をいったりきたりするのです。

 教師は学習が行われる方法についての深い理解も必要です。日本は暗記学習が一般的な国だと考えている人もかつてはいました。以前はそうだったかもしれませんが、変わってきています。PISAテストでは、日本は自主的思考や問題解決能力を必要とする課題を解く学生の能力において最も急速な進歩のあった国でした。

 PISAテストのデータを見てみましょう。OECD諸国全体で昔ながらの課題においてわずかに、また独創的なスキルを必要とする課題でも多少改善が見られることが分かるでしょう。ですから世界は正しい方向に向かっているのです。ところで日本はどうでしょうか。学生の自主的思考と問題解決力が過去3年間にわたって他のどこよりも急速に伸びているのが分かります。

 教師は経験から学ぶために自分のやり方を振り返って考える必要もあります。スウェーデンでは学校の校長は教師に対して絶えず次のような質問を投げかけます。どうしてそのことが分かるのか?別の方法を試すことはできるのか?あるいは他の学校ではどのようにしているか、分かっていることはあるか?などなどです。

 教師はまた、連携する必要もあります。同じ組織にいる他の教師や専門家たちと協力する、あるいは専門家団体のネットワークにおいて協力する必要があるのです。

 オンタリオではこのようなピア・ラーニングを組織的なものにし、すでにシステムにある優れたアイディアを活かそうとしています。ベン・レビン(Ben Levin)元副大臣の説明をお聞きください。
そして昨年11月にシンガポールを訪れた際、学校内に専門的な学習団体を設けるための非常に興味深い取り組みのことを知りました。これをお聞きください。

シンガポールの教師の連携
 そのために、教員が協働できるようにし、お互いの授業の実践の様子を見れるようにします。私はそれがとても必要不可欠で、きわめて重要なことだと思っています。なぜなら良い指導法teaching practiceはひとつの教室の中だけで、その教師のもとだけに留められるべきものではないからです。学校で多くのものを共有できると思います。[授業の様子]学校でのProfessional Learning Communitiesは基本的に先生に指導法を発展させるプラットフォームを与えよう、ということでスタートしました。我々の唯一のフォーカスは、生徒たちが最もよく学べるようにする、ということです。そのためには、コラボ(協働)が必要です。アイデアを交換したり、いろんなことを試して、テストする、そしてその結果をどこかの時点で確認します。意図としてはアイデアを交換して生徒にとって魅力てきなものをつくることです。

 指導においてデジタル資源を最大限に活用すると同時に、学生の学習状況を追跡するために、教師はテクノロジーに関する高度なスキルも習得する必要があります。東北地方の教師たちにとっては、若者が教室の外でどのように学び、遊び、そして交流しているのか十分に理解することも本当に必須となります。ラーニング・フェデレーション(Le@rning Federation)は、ニュージーランドやオーストラリアの学校向けに実施されている興味深いデジタルコンテンツプロジェクトです。シンガポールが教え方におけるイノベーションをどのように奨励しているか、またテクノロジーに特別に重点を置いている柔軟な学習環境についてもご覧ください。

テクノロジー
 我々はテクノロジーを意義深いものであるととらえています。教室での指導において、どうやってこのテクノロジーを活用し、大きなインパクトを与えることができるのか。たとえば、40人の生徒のいるクラスでは、40人の生徒が40の質問を同時にするのは不可能です。そこで、インスタントメッセージを使います。40人の子供たちにたいし、40のウィンドウを開きます。それをつかって、生徒は40の質問を同時にすることができます。教師は生徒が使っているツール上で、彼らの考えていることを見ることができます。生徒も自分が使いこなしているツールを使えるので楽しめます。鉛筆やペンだけではないんです。[授業の様子] 若い教師たちが入ってくると、ICTツールにもっと精通しています。若い教師たちが先輩教師に対して、どうやったらこういうツールをもっと効果的に使えるのか、教えているのも見たことがあります。

 最後に、教師は他者と協力して学習環境をデザインし、管理する必要があります。上海ほど感心させられるところはありませんでした。

イノベーション
 要は、イノベーションや研究によって触発される職業となる必要があるということです。少し考えてみてください。先進工業国では現在、医学研究に対する支出額は教育研究の15倍です。教育と健康への公共支出合計額はほぼ同じであるにもかかわらずです。
実践者によってもたらされるイノベーションや知識から得られるものも非常に多くあります。

 最後になりましたがここで1つ大事なことを申し上げます。私たちは、起業家による新製品やサービスの開発を通じて企業によってもたらされるイノベーション、そして学生や親、地域社会によってもたらされるイノベーションの潜在力をもっと有効に活用すべきです。

結論
 つまり、どういうことか。
 これをもってプレゼンテーションの最後としたいと思います。締めくくりに、21世紀に移るに当たって教育システムが直面する主な改革の課題についてまとめてみます。

 教育水準の高い人間をごくわずかしか必要としなかった昔は、政府にとって国を引っ張っていく少数のエリートに多額を投じるだけで十分でした。けれども教育による成果が低いことで社会的経済的コストは大幅に上昇し、今や若者は皆、高い基礎能力を身に付けて学校を卒業する必要があります。

 学校で学んだことは当然、生涯にわたって続くものだと思うことができた時代には、特定の内容やありきたりの認知技能を教えることが教育の中心となっていました。今日、グーグルでコンテンツにアクセスでき、ありきたりの認知技能はデジタル化されるかアウトソーシングされ、仕事が急激に変化する時代にあっては、生涯学習者となり、コンピューターに簡単に取って代わられることのない、複雑な思考方法や複雑な働き方に対処できる人間を育てることが焦点となります。

 これまで教師は、自分が教えている学生よりも教育を受けた年数がごくわずかに多いだけという場合もありました。教師の質が落ちてくると、政府は教える内容や方法を厳密に命じる傾向にあります。現在の課題は、教職を高レベルの知識労働者という職業にすることです。

 けれどもこのような人たちは、説明責任や官僚的指令という管理形態と統制システムによって作業を指揮するテイラー方式の(Tayloristic)職場のように組織された学校では働かないでしょう。

 必要とする人材を呼び寄せるためには、効果的な教育システムとして、学校における組織の形態を専門家としての組織形態に転換し、その中で専門家としての統制基準によって官僚的で管理的な統制形態を補う必要があります。
この地域はこの改革軌道をかなり進んでおり、世界があなたたち、そして広くは日本から学べる素晴らしい教訓があります。それでも挑戦しなければならない課題は非常に大きなものでしょう。



【講演の資料は以下のサイトで見ることができます】
http://prezi.com/pz6zuoa1wgpk/andreas-schleicher/